2005年12月08日
ジョンレノンとは - みんな夢精をするんだと歌った夢追いお父さん
25年前の今日、つまり、1980年12月8日。
ジョンレノンが銃撃死した。
オノヨーコの暗殺説、CIAの陰謀説もあったが、
狂信的なファンとされるマークチャップマンによる
「ジョンレノンは俺で二人はいらない」
という精神障害による単独犯行ということになっている。
彼は、日系人を妻にすることまでレノンを真似ていて、
レノンが隠遁生活をやめて音楽活動を再開したのが気に食わなかった。
当日は不敵にも午前中にジョンにサインをもらっている。
レノン夫妻は、「ウォーキング・オン・シン・アイス」のレコーディングが済んだばかりの帰宅中だった。
自宅のダコタアパートの前庭で
すれ違った男が「ミスターレノン!」と叫び
5発の銃撃音が鳴り響き、
ジョンは「撃たれた。撃たれた。」と叫びながら数歩歩いて倒れる。
結局、8割の血液を流した。
チャップマンは逮捕されるまで、
その辺をうろつきまわっては、
「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいた。
一方病院では、一人の警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため、
あなたは誰かと尋ねると彼は「僕はビートルズのジョン・レノンだ。」と応えた。
そして、病院のスピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だった。
オノヨーコは真っ先にポールマッカトニーに電話をした。
この数ヶ月前にジョンとポールは再開していて仲直りしていたのだった。
ポールはこの年初めに日本公演の来日の時に麻薬所持で監獄行きという不吉な予兆はあった。
この時期のレコーディングのアルバムが「ダブルファンタジー」となり、
ジョン不在のままグラミー賞を受賞している。
去年だったか、一昨年だったか、
オノヨーコは死んだジョン相手に裁判を起こし離婚をした。
さて、こんな歴史的な日だからこそ、
ジョンの足跡を簡単におさらいする。
ジョンレノンはドイツの英国本土攻撃が近づいていた
1940年10月9日に生まれた。
幼年にして商船隊員だった父親が家族を見捨てると、
母親のジュリアはジョンの伯母にあたるミミに養育を託す。
とはいうものの、定期的にジョンとあってはバンジョーを教えたりしていて、
そのバンジョーの演奏でポールと出会うことになる。
ところが16歳のジョンの誕生日の後に、非番の警官が飲酒運転する車にはねられ死亡した。
後にポールと会うことになるが、そのポールも16歳にして母親を乳癌で亡くしており友情を深めることとなった。
このような替えがたい友情も、後年、
各々の恋人が仕事に介入してくるようになると
崩壊してしまうのは周知の事実だ。
クオリーメンというバンジョーや洗濯板で構成されるスキッフルバンドを組んで、
リバプールのある教会で演奏しているときにポールと出会う。
「なんだか酒臭くてなれなれしいやつだけど面白いこといっているな」
と思ったポールと
「なんか俺よりギターがうまいぞ」と思ったジョン。
ポールがジョージを連れてきて
シルバービートルズとして活動するようになる。
当時フォルクスワーゲンの緻密なブランディング戦略により
イギリスでもビートルは人気の車種だった。
この「かぶとぶし」に「鼓動(ビート)」を入れたのが、
20世紀最高の造語となる「Beatles」だ。
当時、ジョンの友人のスチュがベーシストだったが、
観客に尻を向けて演奏するほどへたくそだったので、
逃げ出すこととなり、それからポールはベースを持つようになる。
ポールが一番器用だったのだろう。
メジャーデビュー前の1963年にはシンシアという女性との間に
ジュリアンという子供が生まれて結婚していた。
出来ちゃった婚だった。
ジョンはシンシアには冷たかった。
「ゲッティングベター」で彼女を叩く歌を歌えば、
「イフアイフェル」では別れることを歌った。
そして「ノルウェイの森」では他の女性関係を歌っている。
日本公演もあった人気絶頂の66年。
後世に語り継がれることとなる
「キリストはもはやビートルズ以下だ」発言があって、
すったもんだしているときに、
小野洋子と出会う。
サージェントペッパーズのときにはすでに、
シンシアと別居そヨーコで同棲していた。
インドの瞑想旅行もメンバーにまじってこのカップルはベッタリしていた。
68年にはシンシアが離婚申請をするが、
ヨーコの公私介入は、バンドのメンバーにとっても緊張を高めるものだった。
1969年にはメンバーのレコーディングをさておき、
ジブラルタルで挙式をあげ、アムステルダムでベッドイン。
帰国したら、アビーロードスタジオを改装してベッドを設置。
すでにメンバーの間では「最後」がなんとなくわかっていたから、
こんなことになるわけだ。
もはやヨーコの存在だけが問題じゃなかった。
ミックジャガーがジョンに紹介したアランクラインというマネージャーをめぐってもポールとそれ以外が対立した。
後年、ミックが心底悔やむように、アランは不正が発覚。
アップルレコードから追放となるわけだが。。。
もうみんないっぱいいっぱいだったのだろう。
ジョンはヨーコ。
ジョージはポールとジョンに認められてない。
リンゴはドラマーとしてのやる気がなくなった。
1970年、それらのすべてを代弁するように、
ポールマッカートニーが、裁判所に「ビートルズ解散」を申請。
これで、世界中のメディアを自由自在にあやつることができた
ひとつの偉大なブランドが化石となった。
それでもそのブランドはいまだもって輝いている。
(続く)

